these days

 併し有難いことに、道具屋と私共の眼のつけ所に、中々喰い違いがあるのである。だから後から出掛ける私達にも、目こぼしの品が相当に恵まれるわけである。人々が注意を払わず、市価がてんでない品の中に、色々よいものが現れてくる。昔ほどの朝市では決してない筈なのだが、それでも見過ごして了うには、勿体ない猟場であった。それで雨が降らなければ、大きな市には、まめに足を運んだ。
 売手の大部分は婆さんであった。好個の内職になるに違いない。大体昼頃で市は終って了うから、買手も早くから集ってくる。度々吾々も出かけるので、しまいには婆さん達と顔なじみになって、吾々のために物をとっておいてくれたりするようになった。

 さてこれ等二つのうち何れが美しさで優るかというと、今日までは云うまでもなく貴族品を尊んできたのです。安ものの民器など省みる者はほとんどありませんでした。これも道理であって、一方は金をかけ技を凝らした上等の品でありますから、その美しさを疑う者はなかったのです。まして多くは名工と呼ばれる人達の作物ですから、いやが上にも信頼を得ました。これに比べ、もともと美を目当に作らない品、安いざらにある品が平凡極まるものに思えたのも当然です。それどころか下等な下品な品と思われ、その美しさを省みる者とてはなかったのです。第一そんなものに美しさがあるとは考えられないことだったのです。ですから美の標準は貴族的な品に置かれていました。
 常識はこれで筋が通るわけですが、この批判は果して物をじかに見てのことでしょうか。概念的な判断ではなかったでしょうか。技巧と美とを混同しているからではないでしょうか。無名な職人達への侮蔑に由来するのではないでしょうか。

 紙には私がない。そのせいか誰だとてこの世界には憎みが有てない。そこには親まれる性情が宿る。顧みない人は無関心であらうが、近づく者は、離れ難い結縁を感じるであらう。私は私の愛する紙を見せて、人々に悦びを与へなかつた場合はない。見れば誰も見直してくれる。良い紙は愛をそゝる。之で自然への敬念と美への情愛とを深める。
 それにこゝでも日本に会ふ悦びを受ける。どこの国を振り返つて見たとて、こんな味ひの紙には会へない。和紙は日本をいや美しくしてゐるのである。日本に居て和紙を忘れてはすまない。
 紙をどれだけ多く使ふか、之で人は文明の度を測る。だがそのことは量につながる。それよりどんな質のを使つてゐるのか。それで心の度を測るべきではないか。悪しき紙と良き文化と果して縁があらうか。とりわけ日々手にする文翰箋や、著はす書物や、それ等のものにどんな紙を選んでゐるか。手近な紙で、国民の平常が忍ばれよう。和紙をなほざりにする者は、美しさをもなほざりにする。
 私達は今果しなく粗悪な紙を左に見、限りなく美しい紙を右に見るのである。何れを選ぶかは持主で分れる。持物と持主とは二つではない。人はいつだとて良き選び手でなければならない。

  
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