byouin

 その聲低く語られる物語は、その一見他奇のない文體にも似ず、非常に緻密に物されてゐる。書いてあることに無駄がないといふより、書いてあることの重要さが大きいのだ。例へば六七頁の「私はポケツトから回數券を取出した。すると女は、それを見てすぐ同じ樣に帶の間から回數券を取出した。そして一枚切りとつた。それで私は、自分のだけ一枚切り取つて殘りをポケツトに返した。そして、切り取つた一枚を指の間に挾んで持ちながら女の手もとを見ると、また同じやうに指の間に挾んでゐた。もはやどこでも一緒におりて來るものときまつた。」はその瞬間の主人公の緊張した氣持が、表面へ出して來るよりも餘計效果的に讀者に觸れて來る。さう云つた風である。そんな風に作者は主人公の女に對する氣持の起伏の消息や、陰影に富んだ然も純な性格を、語るより以上に感ぜしめてある。この話のどこにも馬鹿氣たところはない。私は作者のかういふ風な書き方に同感を持つ者だ。八木氏等の出してゐる麒麟といふ同人雜誌は最近寄贈をうけてゐたが、自分は讀まなかつたが、この小説のやうに外見はあまり引立たない。然し内容は――とこの小説の讀後の感じはそんなところへまで變に實感を持たせるのである。

 飛行機がまたやつて來て、あたりは樹木に埋つた公園であつた。太郎は十錢を拂つて動物園へ入つた。此所なんぞ入場料十圓也と觸れ出せば、紳士淑女は雜鬧し、雜誌は動物園の詩で埋まるに違ひない。水族館まで見て來ると、太郎はたうとう熱い溜息を洩らした。そこを出ると知らない街へ入つた。華かな夕暮が來て、空は緋の衣で埋まつた。それを目がけて太郎は歩いた。後ろから月が昇つたらまたその方へ歩く積りだ。いよいよ夜がやつて來て、先づ全市の電燈をつけた。三日月があがつたと思つたら直ぐ沈んだ。星が出て來ては挨拶をし、出て來ては挨拶を交した。太郎も帽子が振りたくなつた。
 洋館の三階の窓。そこからは何がみえるのだらう。若い男が思ひに沈んだハモニカを吹いてゐた。塗料の匂ひがする、醫療器具屋の前だ。女の兒が群れて輪になり、歌を歌つては空へ手を伸した。子守娘が竝んでゆく。燒鳥屋は店を持ち出した。その下へはもう尨犬がやつて來てゐる。

「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。着いた翌日の夜。義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。旱のためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。平野は見渡す限り除虫燈の海だった。遠くになると星のように瞬いている。山の峡間がぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑わっていた。暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。