jikan

 子規は此簡單な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかつた樣に見える。僅か三莖の花に、少くとも五六時間の手間を掛けて、何處から何處迄丹念に塗り上げてゐる。是程の骨折は、たゞに病中の根氣仕事として餘程の決心を要するのみならず、如何にも無雜作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云つても、明かな矛盾である。思ふに畫と云ふ事に初心な彼は當時繪畫に於ける寫生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも實行しやうと企てながら、彼が俳句の上で既に悟入した同一方法を、此方面に向つて適用する事を忘れたか、又は適用する腕がなかつたのであらう。

 プレヴォーの「不在」という端物の書き出しには、パリーのある雑誌に寄稿の安受け合いをしたため、ドイツのさる避暑地へ下りて、そこの宿屋の机かなにかの上で、しきりに構想に悩みながら、なにか種はないかというふうに、机のひきだしをいちいちあけてみると、最終の底から思いがけなく手紙が出てきたとあって、これにもその手紙がそっくりそのまま出してある。
 二つともよく似た趣向なので、あるいは新しいほうが古い人のやったあとを踏襲したのではなかろうかという疑いさえさしはさめるくらいだが、それは自分にはどうでもよろしい。ただ自分もつい近ごろ、これと同様の経験をしたことがある。そのせいか今まではなるほど小説家だけあってうまくこしらえるなとばかり感心していたのが、それ以後実際世の中にはずいぶん似たことがたくさんあるものだという気になって、むしろ偶然の重複に咏嘆するような心持ちがいくぶんかあるので、つい二人の作をここに並べてあげたくなったのである。

 道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其言辞を実現し得たるとき始めて他をして其誠実を肯はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微かなる陥欠は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁するのである。