kousei

 すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。蜃気楼のようなはかなさは私を切なくした。そして深祕はだんだん深まってゆくのだった。私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかったのである。何という錯誤だろう! 私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。

 私達は斯樣にして小さいものではあつたが非常に強固な文學的な團體を形作つてゐた。行先は東京の文科であり、東京へ出たら必ず私達で雜誌を作らうといふ氣持が云はずして釀されてゐた。ところが兔角さういふことは後れ勝ちになるもので、東京へ出て直ぐと思つてゐた發行が半年少しも後れて初號は次の年の一月にやつと出ることになつた。同人はその劇研究會の中谷、外村、小林、それに私、そこへ中谷が獨文科の忽那吉之助を連れて來て五人、も一人それも中谷の友人で今鏘々とした新進歌人の稻森宗太郎が早稻田から加はつた。當時同人雜誌はまだ實に少ないものであつた。大學では小方又星、伊吹武彦、淺野晃、飯島正、大宅壯一、それに一高の連中がやつてゐた「新思潮」が漸く出はじめた頃で、慶應からは「青銅時代」「葡萄園」――「辻馬車」や早稻田の「主潮」などは私の記憶に間違ひがなければ「青空」よりも遲れてゐた。今の「新思潮」は當時の「新思潮」が潰れてから出たので勿論「青空」よりはあとである。思へばその時分が同人雜誌氾濫のはじまりであつた。

 懲罰日誌そのものゝなかには囚人の悲慘がユーモアに包まれて寫されてゐる。そのユーモアの一つは「錆びついた心」を持つた獄吏の戲畫的な存在である。も一つは犯行者の犯行なるものである。然しそのユーモラスな效果が消えて行つたあと心に迫つて來る重苦しい眞實がある。ともかく私は懲罰日誌には心を打たれた。所々自然科學の言葉が使はれてゐたり、一度云ひ表したことを重ねて使つて效果を深めたり、作者の文體は知的な整つた感じを持つてゐる。偏した味ではなく正統な立派なところがある。そして、それは作者の文學的意圖に合したものであらうことが推察される。