shinryou

 時刻は非常に晩くなったようでもあり、またそんなでもないように思えた。路をどこから間違ったのかもはっきりしなかった。頭はまるで空虚であった。ただ、寒さだけを覚えた。
 彼は燐寸の箱を袂から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では掴んでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。
 暗闇に点された火は、また彼の空虚な頭の中に点された火でもあった。彼は人心地を知った。
 一本の燐寸の火が、焔が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた――
 突然烈しい音響が野の端から起こった。

「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆るあるものがあるんじゃないか。誰でもふとそんな気持に誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」
 もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。彼は相手の今までの話を、そうおもしろがってもいないが、そうかと言って全然興味がなくもないといった穏やかな表情で耳を傾けていた。彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考えていたが、

 どうしたわけで私の心がそんなものに惹きつけられるのか。心がわけても静かだったある日、それを聞き澄ましていた私の耳がふとそのなかに不思議な魅惑がこもっているのを知ったのである。その後追いおいに気づいていったことなのであるが、この美しい水音を聴いていると、その辺りの風景のなかに変な錯誤が感じられて来るのであった。香もなく花も貧しいのぎ蘭がそのところどころに生えているばかりで、杉の根方はどこも暗く湿っぽかった。そして筧といえばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横たえているに過ぎないのだった。「そのなかからだ」と私の理性が信じていても、澄み透った水音にしばらく耳を傾けていると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝かしい魅惑が私の心を充たして来るのだった。